詩篇22篇
指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べにのせて。ダビデの賛歌。
22:1 わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
私の神、私の神、どうして、あなたは、私の救いから、私のうめきの言葉(から)離れ、私を捨てたのですか。
「わが神」という言い表しによって、彼は、個人的に個人の責任において神に従っていました。また、親しく交わり従っていた神です。
しかし、今は、その方から見捨てられたと感じていました。それは、救いが必要な時に救うことなく遠く離れておられるからです。彼は、このときうめいていました。しかし、それが聞かれないかのようでした。
なお、この句は、イエス様が十字架で発せられた言葉の一つです。初めの句だけですが、続く言葉は、イエス様に助けがなかったことが伺えます。
22:2 わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。
私の神、私は昼に叫んでいるが、あなたは聞かない。そして、夜。そして、沈黙は、私にはない。
昼に叫んでも、夜に叫んでも答えはありませんでした。
イエス様に関して、イエス様が十字架に掛かられた期間は、半日ですから、夜昼叫んだという物理的な時間は対応しません。しかし、応えを待ち続けたことが表現されています。
22:3 けれどもあなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。
そして、あなたは、聖。御座に座しておられる方。イスラエルの賛美。
「聖」であることは、人の思いや都合には関係なく神様の御心のままに事をなさることを表しています。「聖」は、「分離、(人と)異なる」ことを表します。
そして、御座に着いておられる方で、全てにまさる権威を表しています。
聖なる方であり、御座に着かれる方であり、賛美を受ける方であることを言い表しているのは、ダビデの状態に合わせて彼が望むことが実現することだけが神の業ではなく、その思いを遥かに超えた御業によって事をなすことで栄光を現されることを言い表しているのです。彼の独りよがりの思いから神の救いを求めているのではないことが分かります。
22:4 あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。
あなたに私たちの先祖は信頼した。彼らは、信頼した。そして、あなたは彼らを確かに救い出され(あるいは解放され)た。
・「助け出す」→助け出す。救う。解放する。強意語幹。確かに助け出す。
22:5 あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。
彼らは、あなたに叫び、そして、彼らは助け出された。彼らは、あなたに信頼して、彼らは、恥じを受けなかった。
ここからは、先祖に対する神のお取り扱いについて取り上げています。これは、二十一節までのまとまりになっていて、彼自身の助けを求める願いに繋がります。
先祖については、彼らは、主に信頼し助け出されたのです。叫んだとき応えられることで恥を見ませんでした。
しかし、このとき、応えられませんでした。
22:6 しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。
しかし、私は、虫けらである。人間ではない。人の非難。民に蔑まれる者。
先祖と対比して、「しかし」と言い、自分は、虫けらですと言いました。それは、彼は人として扱われることなく、人のそしりを受け、蔑みを受けたからです。虫けらのように扱われたのです。
この「虫けら」という語は、単独では、芋虫のような虫を表す語です。しかし、幕屋に使われている「緋色」は、この語とカイガラムシを表す語がつながって緋色という一つの語を構成しています。カイガラムシは、赤い高級な染料の原料です。幕屋の緋色は、イエス様に関して虫のように低くなったことと、御自分を捨てることで栄光を受けられたことを表しています。特に、十字架の預言において虫けらの語が用いられていることで、そのことが明確にされています。
・「そしり」→非難。叱責。責め。
・「人間」→イス。
・「人」→アダム。塵に由来。
以下には、彼が虫けらのようにされたことが具体的に記されています。自分を見る者から嘲られたのです。皆、嘲りました。
22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
私を見る者はみな、私を嘲り、唇のうちに抑えることなく、頭を振らせた。
見る者はみな嘲りました。言葉を抑えることなく、言いたい放題に言い、頭を振り、否定する態度を取ったのです。
・「嘲り」→嘲る。使役語幹。詩では使役語幹で同義です。
・「口」→唇。
・「とがらせ」→抑えようがない。露骨な。
22:8 「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
主に委ねよ。主が確かに彼を助け出す。主に彼を助けださせよ、なぜならば、彼を主は大いに喜んだのだから。
そして、主が助け出されない状況で、主に助け出してもらえばいいというのです。主のお気に入りであるからと。たしかに、イエス様は、主に信頼して歩み、主に愛されてきたのです。
・「身を任せよ」→委ねる。命令形。転がすことによって動き出したり、移動したり、位置を変えたりすること。この場合、行いが主によるものとすること。結果を委ねるのではなく、行いの原動力が主によること。
22:9 まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
確かに、あなたは、私を胎から取り出した方。あなたは、私を母の乳房により頼ませた方。
22:10 生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
誕生の前から、私は、あなたに守らせられた。母の胎からあなたは私の神。
彼は、自分の出産、成長にあたっては、母により頼むものとされました。それについて、彼は、それは、主が彼をそうされて、主により頼むようにされたのだと。母に依り頼ませたのは、自分自身が無力な存在とされて、主に頼る以外にない者とされたのです。
現実には、ダビデが胎内にいたときからそのことを認識していたとは考えられません。これは、比喩的な表現です。
イエス様に関しては、母の胎内に宿ったときから、人として完全に父に依り頼む方であったことを覚えさせられます。主イエス様には、神としての御力があり、いつでも力を行使できる神であるという説明がされることがありますが、そうではなく、人となられたときは、父に依り頼んだのです。イエス様がなされる業は、父がイエス様にあってなしておられる業です。
・「委ねる」→保護下に置く。守る。使役語幹、受動態。守らせられる。
22:11 どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。
私から遠く離れないように。なぜならば、苦しみが近く、なぜならば、助ける者がいないから。
主の答えがない状況で、主が遠く離れないよう願いました。彼は、主にのみ頼る者であることを言い表しています。苦しみが近くにありました。しかし、誰も助けるものがいないのです。人に頼ることはしませんでした。主に頼ったのです。
・「苦しみ」→窮地に追い込まれたときに感じる、息苦しさ、圧迫感、あるいは閉塞感。
22:12 多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。
多くの雄牛が私を取り囲み、バシャンの力ある者が私を囲んだ。
取り囲んだ者は、雄牛と表現されています。その雄牛は、バシャンの力ある者です。牛は、しもべの比喩です。バシャンは、敵国の者ではなく、自分の国のものであることを表しています。これは、イエス様がご自分の国に来られたのに、彼らは知らなかったこと、ご自分の国民がユダヤ人の王としてのイエス様に反逆したことを表しています。
22:13 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
彼らは、私に向かって口を開く。引き裂き、吠える獅子のように。
彼を取り囲んだのは、多くの「雄牛」です。雄牛は、比喩としては、「神に従うしもべ」を表します。これは、神のしもべとして仕えているイスラエルの指導者を表しています。彼らは、猛者どもと表現されているように、力ある者たちです。
その指導者たちは、彼に向かって口を開きます。それは、獅子のようです。獅子は、悪魔の比喩です。彼らは、悪魔の手先としてその言葉を発するのです。しかも、引き裂く言葉です。
22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
私は、水のように注ぎ出され、私の全ての骨を自らバラバラに外した。私の心は、蝋のように私の内蔵の真ん中で解けた。
水のように注ぎだされたことは、注ぎの捧げ物が表していることと同じで、自分を捨てたことを表しています。彼は、神様がなされることに全てを委ねて、自分を捨てたのです。自分を主張することはありません。
骨は、その人が持つ教えの比喩です。骨を自ら皆外したことは、彼自身がその教えに堅く立つことをしないことを表しています。その教えが連携して機能しないことを表しています。彼のうちにあった教えは、神の御心でした。それが砕かれることはありませんが、力としては無力でした。
心は、御言葉を受け入れる部分です。心が溶けたことは、その機能が停止したことを表します。
大きな試み受けたとき、最大の問題は、その人の持つ教えが揺らぐことです。また、神の言葉に対する信頼を失うことです。信仰者は、自分の持つ教えが、御言葉に整合するように矯正し、神の御心がその人の持つ教えとなるように訓練されます。敬虔な人は、自分の持つ教えが神の教えと整合しているのです。しかし、試みを受けたとき、自分の持つ教えによって歩むことができなくなる危険があるのです。
・「外れた」→外す。離す。使役語幹、再帰。自らばらした。
22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。
私の舌は、土器のかけらのように乾き、舌は、顎に貼り付けさせられた。そして、死の塵に置いた。
そして、彼には、力が失せました。力をもって歩むことができなくなったのです。
舌は、言葉を発する部分です。彼は、その口で神を褒め称えて来たのです。
彼は、自分が死の塵の上に置かれたと考えました。死ぬばかりであったのです。彼にとって死は、たましいが躓くことです。
イエス様に関して、十字架の御業は、神の御心を行うことですが、裁きの中にある時、力をもって何かをすることはなく、ただ裁きに服しました。言葉を発することもありません。父とともに一つになって歩むいのちは、この時、ないかのようでした。
22:16 犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。
なぜならば、犬どもが私を取り囲み、悪をさせる者たちの群れが私をとり理巻いて、私の手と私の足に穴を開けた。
「犬」は、価値のないものを表しています。これは、雄牛と対比されています。預言的には、彼を取り扱った異邦人を表しています。具体的には、悪をさせる者と記されています。彼らは、彼を取り巻き、手足に穴を開けたのです。
ローマの兵士たちは、イエス様の手と足に釘で穴を開けました。
22:17 私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
私は、私の骨骨をみな正確に数えることができる。彼らは、私に注目させ、見ている。
骨を数えることができることは、彼の持っている教えの一つ一つについて正確に確認できることを表しています。彼は、彼は、主の教えを自分のものとしており、それを何一つ失ってはいませんでした。
彼を取り巻く者たちは、彼に注目させ、見ています。その彼らの前に、教えに反することは何もありませんてした。
・「数える」→数える。強意語幹。
22:18 彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。
彼らは、私の衣服を彼らの間で分け、そして、私の服のためにくじを投げた。
彼らは、衣服を分け合いました。そして、くじ引きにしたのです。このことは、預言として成就しました。
詩篇の流れに沿って考えるならば、衣服は、外に現れる栄光を表しています。彼らは、それを剥ぎ取ったのです。彼が、主の御心ために歩む歩みを評価することはありません。彼が、主に喜ばれるものとして歩んでも、彼らは、それを評価せず、単に敵対者として扱うのです。
22:19 主よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。
そして、主よ、あなたは、遠く離れず、私の力よ、私の助けのために急げ。
主が離れないように願いました。「私の力」は、主御自身を表しています。早く助けに来てくださることを、命令形で急げと言い表し、強く願いました。
22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
救い出させよ。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
彼が求めたことは、たましいが救い出されることです。彼らは、「剣」を使って攻撃しました。剣は、御言葉の比喩です。たましいは、御言葉に従う部分です。彼らは、攻撃するために、御言葉を用いたのです。
「私のただ一つのもの」は、「いのち」です。たましいが御言葉に従っていくことで得られる命です。犬の業は、それを壊そうとしているのです。
22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。
私を救わせよ。獅子の口から、野牛の角から。あなたは、私に応えた。
そのように、たましいが御言葉に従って生きることから引き離し、躓かせようとしているのは、獣によって表される悪魔の働きです。また、野牛によって表されている地の支配者たちです。角は、権力を表しています。
そのように救いを求めたことに対して、主は、応えてくださいました。この救いは、たましいが守られたことです。彼は、神の言葉に完全に従い通しました。
民数記
24:8 彼をエジプトから導き出された神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼は自分の敵の国々を食い尽くし、彼らの骨をかみ砕き、矢をもって撃ち砕く。
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野牛の角は、力強さを表しています。それは、肉を食い尽くし、その人の持つ教えとしての骨を砕き、教えとしての矢で打ち砕く力です。
22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。
私は、あなたの御名を兄弟たちの間で、正確に数える。集会の真ん中であなたを賛美しよう。
救い出されたとき彼がしたことは、御名を兄弟たちの間で、正確に数えることです。これは、一つも漏らさず、主が表された「御名」すなわち主の特性あるいはその栄光を示すことです。たましいを守るために主がどのように応えられたかを語り告げるのです。それが、主の御名です。
そして、集会の中で、主を賛美しようと。そうすることで、主に栄光が帰せられます。
・「賛美する」→賛美する。奨励。
22:23 主を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ主の前におののけ。
主を恐れる人々よ、主を大いに褒め称えよ。ヤコブの全ての裔よ、主に栄光を帰せよ。そして、イスラエルの全ての裔よ、主を恐れおののけ。
また、その賛美を主を恐れる者たちに呼びかけています。賛美し、栄光を帰し、恐れ慄くのです。主を賛美し、栄光を帰すことは、主を恐れ慄くこととして現れます。それが御名を知ることです。
主を恐れている人々は、ヤコブの全ての裔よと言い換えられています。ヤコブは、肉の現れという弱さを持つ者たちを表しています。ヤコブの子孫であるから必ず主を恐れているとは限らないのですが、本来主を恐れるべきなのです。ヤコブの裔は、主に栄光を帰すのです。また、イスラエルに対して呼びかけられています。神の選びの民です。主の前におののくのです。
22:24 主は貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず御顔を彼から隠すことなく助けを叫び求めたとき聞いてくださった。
なぜならば、主は、謙る者の謙りを蔑まず、嫌悪せず、御顔を彼から隠さなかった。彼が激しく叫んだとき、聞かれた。
「貧しい」は、「謙っていること」で形容詞です。「苦しみ」と訳されていますが、ひざまずく転じて身を低くするとも訳される語です。ここでは、「謙る者の謙り」を表します。主は、それを蔑まず、嫌悪しません。御顔を隠すことはありません。激しく叫ぶならば聞いくださるのです。
22:25 大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。
大いなる集会の中での私の賛美はあなたからのもの。私は、私の誓いを主を恐れる者たちの前で必ず果たします。
彼が大いなる会衆の中で賛美しましたが、それは、主が彼に栄光を現したからです。彼は、自らの経験を通して知った主の栄光を賛美したのです。
また、誓いを果たすことを言い表しています。彼は、イスラエルが主を恐れるようにと言いましたが、誓いは 主を恐れることの現れです。人前ではなく、主の前に責任ある行動を取るのです。主を恐れる人々の前で誓いを果たすことは、誓いが主を恐れることの表れであることをよく示しています。
・「果たす」→強意語幹。
22:26 どうか貧しい人々が食べて満ち足り主を求める人々が主を賛美しますように。──あなたがたの心がいつまでも生きるように──
貧しい人々は食べて、そして、満ち足り、主を求める人々が、主を大いに褒め称える。あなた方の心はいつまでも生きよ。
そして、ダビデと同じように、「貧しい」すなわち謙る人々が食べて満ち足りるように祈りました。これは、比喩であって、謙る者の求めが満たされることを表しています。謙る者は、御心を行うことを求めるのです。そして、それを実現してくださる主の栄光を見るのです。そのようにして満たされるのです。
そうして、主を求める者たちが、主を大いに賛美します。主の栄光が現されて、主に栄光を帰するのです。
それは、彼らの心がいつまでも生きることで実現することです。神様の御心を求め、その実現をいつでも求める心がいつまでも生きるように願いました。生きよ、と。
22:27 地の果てのすべての者が思い起こし主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。
人々が思い起こし、そして、地の果ての全ての者が主に帰って来る。そして、国々の全ての部族が御前にひれ伏す。
地の果ての全ての者は、「思い起こし」帰ってきます。「思い起こし」という言葉から、かつては主に従っていた者たちであることが分かります。そのような人も立ち返ってきます。
また、国々のあらゆる部族は、異邦人のことです。彼らもあなたの前にひれ伏します。ひれ伏すことは、主を恐れることを表しています。
22:28 (なぜならば)王権は主のもの。主は国々を統べ治めておられます。
なぜならば、王権は、主のために。そして、その支配は、国々の中に。
それは、主が、全ての国に対して支配権をお持ちであり、国々を統べ治められるからです。すべての国々の民に対してその栄光を示すためです。
・「統べ治め」→治める。分詞。治めること。統治。支配。
22:29 地の裕福な者はみな食べてひれ伏しちりに下る者もみな主の御前にひざまずきます。自分のたましいを生かすことができない者も。
人々は、食べて、地の裕福な者たちはみな、主の前にひれ伏し、地に下る者たちはみなひざまづき、そして、自分のたましいを生かすことができない者も。
地の裕福な者たちは、霊的に富んでいる人たちのことです。彼らは霊的な食物を食べて満ち足ります。その食物は、キリストです。
塵に下る者たちは、富んでいる人と対比されています。富む者の外の範疇に入る人のことです。その中には、自分のたましいを生かすことができない人が含まれています。塵は、地に属するものまた価値のないものを表しています。この世の価値のないものに触れる者たちであるのです。そのような者たちも、主の前にひざまずきます。主を恐れるのです。
自分のたましいを生かすことができない者たちは、神の言葉に従って生きることができない者たちです。たましいが神の言葉に従って生きて初めて、生きると言えるのです。そのような者たちも、主を恐れてひざまずくのです。
22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
子孫は、主に仕え、主のことが次の世代に数えられる。
その子孫たちは、主に仕えます。そして、主のことが世代に間違いなく正確に伝えられます。
・「語り告げられ」→数える。強意語幹、受動態。正確に数えられる。
22:31 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。
彼らは来て、主がなされた義を生まれてくる者のために告げ知らせ。
彼らが語り告げるのは、主の義です。それは、主が行われた義です。